4714569 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

Dog photography and Essay

Dog photography and Essay

定陵テーマ博物館


定陵は遺跡性特別テーマ博物館



DSCF5328.jpg


定陵博物館は遺跡性特別テーマ博物館である。
定陵は1584年~1590年までの6年間を費やし建立された。
明の万暦皇帝の朱翊韻と孝端、孝靖の2人の皇后を、
合葬するための墓だった。
定陵は山地の上2部分を墓として造って構成する。


DSCF5330.jpg


石橋石碑や宮の扉、丘陵の恩の扉を造り、
丘陵の恩の殿、方城明の棟と宝城などを構成。

非合法的な建物は5基の石を抱き合わせた構造の、
アーチ型のホールから構成し、地下宮殿とよばれ、
この定陵は精巧で雄大で中華民族の貴重な宝物で、
世界的に有名な観光地、明の十三陵の中で一番人気で旅行者も多い。


DSCF5331.jpg


明の十三陵にある14代皇帝「万歴帝」の陵墓「定陵」の、
出口を出て少し歩くと「昭稜」に着く。


DSCF5350.jpg


ここでは大きな石碑があった。
そして石碑の礎石の縁に綺麗な龍の彫り物があったので画像に収めた。


DSCF5351.jpg


龍の頭が右を向いたものと左を向いたものの、
左右対称を撮ったつもりだったが、
大きさはや位置は左右対称ではない。


DSCF5349.jpg


14代皇帝「万歴帝」の陵墓「定陵」の出口を出て少し歩くと、
「昭稜」にある石碑に何が書かれているのか分からなかったが、
歴史的に価値がある物なのだろうと画像に収めた。
龍の彫り物はこの石碑の土台に彫ってあるが撮影は苦労した。


DSCF5354.jpg


土台の龍の彫り物を撮影する為には、
人が入れないように柵がしてあり、
その柵の間からカメラを入れ、
片方の腕は違う隙間から入れ込み画像に収めた。


DSCF5348.jpg



画像からは分からないが、
後ろには大勢の人が何をしているのかと見ていた。



DSCF5357.jpg


陵墓「定陵」を出ると「昭稜」に出て、
その石碑を見終えると、石段がありそれを下りた。

帰りの階段はUターンするほど急な曲がりになっていた。
下に下りてよりその「昭稜」を壁越しに撮った。


DSCF5358.jpg


この定陵は地下10mの所にあり、
それから17m上がった所にこの昭稜があり、
その高さは27mに及ぶ。


DSCF5309.jpg


14代皇帝「万歴帝」の陵墓「定陵」を見終えて下に下りたが、
博物館が何処にあるのか分からなくなった。

仕方なくガイドに電話したが、もう既に博物館を出たとの事。


DSCF5312.jpg



慌てて道を急いだ。
その途中綺麗な色の傘に急いでいる事を忘れて、
その綺麗な傘を画像に収めた。
そして傘を売っている人に博物館の場所を聞いた。
中国の人が皆そうするように、その人も指だけ指して教えて下さった。


DSCF5364.jpg


万暦帝には、子供を生めなかったが、
生涯万暦帝の糟糠(そうこう)の妻だった孝瑞皇后と、
万暦帝のあとを継いだ泰昌帝を生み、
死後に皇后に冊立された孝靖皇后がいたが、
その他に万暦帝は鄭貴妃を愛し続け重臣に、
皇后にするようにと遺言を残した。


DSCF5362.jpg



しかし、定陵には万暦帝・孝瑞皇后・孝靖皇后の三人の、
柩しかなく万暦帝が21歳から58歳の崩御まで、
愛し続けた鄭貴妃の柩はなかった。
そしてその鄭貴妃も髪に挿したであろうと、
信じたい「かんざし」が飾られていた。


DSCF5363.jpg


1959年9月30日、発掘現場に博物館を建立し郭沫若が、
「定陵博物館」と命名した「吉祥如意ji2xiang2ru2yi4」
「万事めでたく順調である」


DSCF5360.jpg


このようなお金も流通していたのだろうか?
下は翡翠の首飾りであるが、細工が非常に細やか。


DSCF5379.jpg


万暦帝には、「孝瑞xiao4rui4皇后」と、
「孝靖xiao4jing4皇后」の二人の皇后がいた。

そして一番愛した「鄭zheng4貴妃」を万暦帝の死後、
一緒に埋葬するように遺言を残したが認められなかった。


DSCF5380.jpg


孝瑞皇后は子供を生めなかった。
孝靖皇后は万暦帝の後を継いだ泰昌帝を生み、
万暦帝の死後に側室から皇后になった。

上の絵は万暦帝であるが、真ん中と下の絵はどちらが、
「孝瑞xiao4rui4皇后」で、
どちらが「孝靖xiao4jing4皇后」か分からない。


DSCF5378.jpg


ひょっとしたら二人とも同じ人なのかもしれない。
目じりが上がり目と下がり目の違いで違う人と思った。


DSCF5382.jpg


安徽省生まれの朱元璋が、
1368年南京で明王朝(1368~1644)を開いた。
三代永楽帝は北京に遷都し、以後7代皇帝を除く、
13人の皇帝の陵墓が明の十三陵として造られた。

しかし「帝陵」の造営は6年の歳月と白銀800万両を、
使って定陵を完成させた。
当時の白銀800万両は、当時の一千万人の民衆の、
一年分の食糧に匹敵した。


DSCF5383.jpg


その造営が明朝の滅亡の原因を作ったとの事。
画像は馬蹄の形をした馬蹄銀のお金。
時代劇でもよくこのお金が出てくる。
一般には唐時代よりコインの製造方法が同じ、
四角い穴の周りに「洪武通宝」と記された丸いお金。


DSCF5403.jpg


万暦帝が「定陵」を造営にあたった1585年から1591年当時の、
造営に当たった労働者の姿を壁に彫刻したものであるが、
当時の人のリアルな姿にシャッターを切った。


DSCF5404.jpg


ふくらはぎなど何とも言えない躍動感がこの彫刻から伝わってくる。
何度も画像を更新した未完成の画像1画像2の、
ピラミッド型ゲートで、これは何を意味しているのか分からない。


DSCF5406.jpg


資金切れと書いたが6年で造営が終了して、
その後万暦帝が崩御するまで30年の間時間が有ったと思い直した。
下の画像は三代洪煕帝は南京から北京に遷都し、
故宮を修復した。それを壁に模った。


DSCF5407.jpg


万暦帝が造営した「定陵」の入口近くの壁に、
見事な龍の彫刻が貼られていた。
見とれていて慌ててシャッターを切った。

なぜならばツアーのガイドさんが私の後ろに立って
「貴方が最後ですよ!皆さん待ってますからね」と、
言われたからである。

約束の時間まであと2分あったが、
最近は30分遅れるのは当たり前の中国時間は無くなったのかと、
言いながらバスに乗り込んだ。

そしてガイドは私に、このツアーは私と運転手以外は、
中国人は誰も居ませんよと言われた。



DSCF5412.jpg


観光バスは高速道路「清河料金所」を通り抜けると、
街は一気に暗くなった感じがした。

観光バスはそれぞれの皆さんが宿泊しているホテルまで送り、
私は宣武門のホテルまで送って頂いたが、

皆さんが泊まっているホテルからみると、みすぼらしく思えたが、
ここは横にSOGOがあり有名百貨店も有った。
そしてその途中の北京の街並みを画像に収めたのが、
右側のワーゲンジェッタ王に目が行った。


DSCF5415.jpg



私が中国に来て一番初めに購入した車だった。
今は車は無い。車なしでいろんな交通機関や、
会社の運転手に乗せてもらっている。

その方が中国語の勉強も出来るし、
何時でも寝れる。次から故宮の画像の更新しようと思う。


「中国写真ライフ」へ戻る。
「保和殿で科挙の試験」へ



© Rakuten Group, Inc.